生物多様性とは、地球上に存在する生命のあらゆる形の多様性を指し、遺伝子レベルでの多様性、種の多様性、生態系の多様性の3つに大別されます。近年、生物多様性と人間の健康との関連に注目が集まっています。では、現在どのような科学的エビデンスがあるのでしょうか?そして、想定されるメカニズムとは?本稿では、疫学者の立場からその背景と最新の知見について解説します。
人間の健康と環境曝露との関係は、「環境疫学(Environmental Epidemiology)」という分野で研究されています。環境疫学の歴史は19〜20世紀の産業革命期にまで遡り、当初は環境汚染、特に感染症との関連が主な研究対象でした。たとえば、コレラと下水による汚染の因果関係を指摘したJohn Snowはその代表例です。こうした研究により、環境が「キレイ」であることが健康にとって重要であるという認識が世界的に広まりました1。一方で、21世紀に入り、環境疫学は次のフェーズへと進みつつあります。先進国では、環境は以前より「キレイ」になり、感染症による死亡率は大きく低下しました。では、このまま人間以外の生物が姿を消していくような「キレイさ」を追求し続けるべきなのでしょうか? それとも、「キレイ」とは何かを問い直すべき時なのでしょうか?
1989年、D.P. Strachanは「衛生仮説(Hygiene Hypothesis)」を提唱し、アレルギー疾患(喘息やアトピー性皮膚炎など)の発症には、むしろ「キタナイ」環境の方が予防的に働く可能性があると主張しました2。当初は批判も多くありましたが、乳幼児期に多様な微生物に曝露されることで免疫系の適切な発達(immunotolerance)が促されるという仮説は、現在でも有力な理論として支持されています。つまり、人間の免疫細胞を定期的に訓練できる環境がないと、花粉や食べ物といった本来無害な物質に対して過剰反応を起こし、アレルギー疾患などを発症すると考えられているのです。実際、「キレイ」な環境が整備されたにもかかわらず、アレルギー疾患の罹患率が減少していないという現状もあります3。この衛生仮説に基づき、近年では体内の細菌叢(マイクロバイオーム)の多様性が、非感染性疾患のリスク低下と関連していることをさまざまな研究が報告してきました456。さらに、体内の生物多様性は自然環境における生物多様性とも密接に関連しており、外界の生物多様性が、アレルギーなどの非感染性疾患の予防につながる可能性があるという「生物多様性仮説(Biodiversity Hypothesis)」が提唱されるに至ります7。
「自然の生物多様性を守ることは、人間の健康を守ることにつながる」、こう言い切りたいところですが、残念ながら現時点での科学的エビデンスはまだ限定的です。これまでの研究の多くは、グリーンスペースや自然環境における微生物の多様性を評価対象としており、結果も一貫していません8。アレルギー疾患のリスクを低下させるという報告がある一方で、逆にリスクが上昇するという報告も存在します。ランダム化比較試験のような因果関係を明確にする研究デザインを、倫理的・資金的な理由から実施しにくい環境疫学においては、因果推論の困難さが常に課題です。人生のどの時期に、どのような生物多様性に、どのように触れることが、身体的・精神的健康にとって有益なのか。こうした問いに対する答えは、今後の質の高い研究に委ねられています。
それでも、限られた研究資源のなかで、やみくもに基礎研究に投資することは難しい現代においては、比較的低コストで実施可能な環境疫学研究からアプローチを始めるのが現実的かもしれません。近年では、できる限りバイアスを抑え、因果関係に近いかたちで相関関係を評価する手法も徐々に提案されつつあり、環境疫学の可能性は広がっています。科学的エビデンスの積み重ねにより、「生物多様性と人間の健康」の関係性がより明確になることを期待しています。ただし、生物多様性の喪失が進んでいる現状を放置してよいわけではありません。なぜなら、疫学研究から基礎研究に至るまで、確かな研究成果が得られるには相応の時間がかかるからです。「生物多様性が人間の健康被害を予防する」というエビデンスが確立された頃には、肝心の生物多様性がすでに失われていた、という事態になってしまっては手遅れです。だからこそ、科学的な解明を進めると同時に、生物多様性の減少を食い止める努力も、今この瞬間から始めなければならないのです。
引用文献
- Snow J. On the Mode of Communication of Cholera. London : John Churchill; 1855. Accessed April 11, 2025.
http://archive.org/details/b28985266 ↩︎ - Strachan DP. Hay fever, hygiene, and household size. BMJ. 1989;299(6710):1259-1260. doi:10.1136/bmj.299.6710.1259 ↩︎
- Lv J jie, Kong X meng, Zhao Y, et al. Global, regional and national epidemiology of allergic disorders in children from 1990 to 2019: findings from the Global Burden of Disease study 2019. BMJ Open. 2024;14(4):e080612. doi:10.1136/bmjopen-2023-080612 ↩︎
- Rook G a. W, Brunet LR. Microbes, immunoregulation, and the gut. Gut. 2005;54(3):317-320. doi:10.1136/gut.2004.053785 ↩︎
- Rook G a. W, Adams V, Hunt J, Palmer R, Martinelli R, Brunet LR. Mycobacteria and other environmental organisms as immunomodulators for immunoregulatory disorders. Springer Semin Immunopathol. 2004;25(3-4):237-255. doi:10.1007/s00281-003-0148-9 ↩︎
- Chang C, Yuan X, Zhang X, Chen X, Li K. Gastrointestinal Microbiome and Multiple Health Outcomes: Umbrella Review. Nutrients. 2022;14(18):3726. doi:10.3390/nu14183726 ↩︎
- Haahtela T. A biodiversity hypothesis. Allergy. 2019;74(8):1445-1456. doi:10.1111/all.13763 ↩︎
- aciência I, Sharma N, Hugg TT, et al. The Role of Biodiversity in the Development of Asthma and Allergic Sensitization: A State-of-the-Science Review. Environ Health Perspect. 2024;132(6):066001. doi:10.1289/EHP13948 ↩︎