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残念なカーボンオフセットの効果

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自主的なカーボンクレジットを活用したオフセットについては様々な課題が論じられていますが、実際にどの程度活用されているのか、どのようなインパクトが経済活動に生じているのか、現状を明らかにすることは、建設的な議論のためには必要なことです。本記事ではStolesとProbstによる定量的な分析を紹介し、そこから得られる示唆について考察します。

文献情報:Stolz, N., Probst, B.S. The negligible role of carbon offsetting in corporate climate strategies. Nat Commun 16, 7963 (2025). https://doi.org/10.1038/s41467-025-62970-w

著者の問題意識:企業が取るべき行動とは「構造的な内部脱炭素化」

論文の著者たちの視点の根幹にあるのは、地球規模の気候変動対策において、企業は排出削減が困難なセクター(石油・ガス、航空、自動車など)であっても、「内部(自社およびバリューチェーン内)での実質的な脱炭素化措置」 を最優先し、実行すべきであるという考えです。
これは、排出量に高額な費用を課すことで構造改革の動機付けとなる義務的な規制メカニズム(ETSなど)を強化し、企業が中長期的な目標を設定し、それに向けた具体的な投資を行うことによって実現されるべきだと考えられています。

カーボンクレジットがもたらす問題意識:「モラルハザード」の懸念

この「構造的な内部脱炭素化」という理想に対し、自主的なカーボンクレジットの存在は、モラルハザード(倫理的危険) を引き起こすのではないかという強い懸念を著者たちは抱いています。
モラルハザードとは、企業が安価で容易なカーボンクレジットの購入という代替手段に頼ることで、手間とコストのかかる内部投資や事業構造の変革を怠るリスクです。つまり、オフセットによる「カーボンニュートラル」などの主張が、実質的な削減努力を伴わず、「グリーンウォッシング」 の手段となり、真に必要な行動を遅らせるのではないかという問題意識です。

分析結果による検証:「取るに足らない役割」という新たな事実

この問題意識に基づき、過去の排出実績と目標の野心を分析した結果、カーボンクレジットは「構造的改革の邪魔をしているか?」という問いに対し、論文は以下の事実を発見しました。

1.カーボンオフセットと気候パフォーマンスの間に有意な関係はない
企業が自主的なカーボンクレジットを購入・償却する行為は、その企業の過去の排出削減実績や将来の気候目標の野心と、平均的に見て関連性がないことが発見されました。

  • クレジットを購入した企業と購入しなかった企業の間で、過去のスコープ1排出量の変化(2018年報告サイクルから2023年報告サイクルの間)や2050年までの気候目標の野心に、統計的に有意な差は見られませんでした。
  • ヨーロッパに本社を置く企業は、他の地域の同業他社よりも野心的な目標を設定している傾向がありましたが、これはクレジットの購入数とは無関係でした。
  • 石油・ガス企業は、他のセクターの企業よりも野心度の低い目標を設定する傾向がありましたが、これもクレジットの購入数とは無関係でした。

2.オフセットへの支出は設備投資に比べて取るに足らない
多くの企業にとって、自主的なカーボンオフセットへの金銭的なコミットメントは非常に小さく、構造的な脱炭素化投資を阻害するほどの規模ではないことが明確になりました。これは、そもそもクレジット購入に回す資金が内部投資を阻害するほど大きくないため、モラルハザードのリスクも限定的になっていることを意味します。

  • サンプル内の企業が自主的な排出オフセットに費やした資金は、平均して設備投資(CAPEX)に比べてわずか1パーセントに過ぎませんでした。
  • CAPEXの一部をカーボンクレジットに最も多く費やした企業でさえ、easyJet が2.7%、Delta Air Lines が1.8% にとどまりました。
  • 石油・ガスセクターでオフセットに最大の資金シェアを費やしたEni は、CAPEXに対してわずか0.14-0.38%、Shell は0.10-0.25% しか費やしていませんでした。
  • また、ETS規制対象のヨーロッパ企業において、自主的なカーボンクレジットへの支出は、コンプライアンス排出量取引制度(ETS)の下での義務的な費用と比較して遥かに低いことが分かりました。例えば、自主的なオフセット費用が最大の企業の一つであるeasyJetでさえ、コンプライアンス排出量取引に自主的支出の9.9倍多くの資金を費やしています。

3.大規模オフセッターにおいては内部脱炭素化との競合が存在する
平均的な企業では競合は見られなかったものの、特に大規模なオフセット戦略を実行している一部の企業については、自主的なオフセットが内部脱炭素化の努力と資金面または目標達成面で競合していることが確認されました。

資金面での競合の事例:

  • Delta Air Lines は、カーボンクレジットと内部脱炭素化イニシアチブの両方を含む脱炭素化措置のために10年間で10億米ドルの固定予算を設定しました。しかし、3年後には2億8400万米ドルをカーボンクレジットに費やしており、内部脱炭素化イニシアチブに回せる資金を圧迫していることが判明しました。
  • easyJet は大規模なオフセットキャンペーンを中止した後、以前にオフセットにコミットされていた資金を内部脱炭素化措置に使用すると発表しました。これは、オフセットがそれまで内部脱炭素化と競合していたことの明確な証拠と見なされます。

目標達成面での競合の事例:

  • Shell、Eni、Inpex などの石油・ガス企業は、排出削減目標にカーボンクレジットの使用を統合しており、構造的な排出削減努力を行う代わりに、カーボンクレジットの償却によって目標を達成する代替手段として使用する意図が示唆されました。

著者たちは、自主的なオフセットの費用が小さすぎるため、平均的にはモラルハザードの主因となっていないものの、その役割が公の議論で過大に評価されていると結論付けています。そして、真の脱炭素化を進めるには、安易な自主的オフセットではなく、義務的な規制と内部改革の進捗に焦点を当てるべきだと提言しています。

本論文を踏まえた“step forward”

著者らの分析は、企業の気候戦略における自主的なカーボンオフセットが、その規模と効果の低さから「取るに足らない」役割しか果たしていない現状を明らかにしました 。こうした問題提起の背景には、排出削減においてまず内部努力を優先すべきといういわゆる「ミティゲーション・ヒエラルキー」 の遵守を求める著者らの問題意識があります。

  1. ミティゲーション・ヒエラルキー遵守の重要性
    生物多様性の領域で用いられる「ミティゲーション・ヒエラルキー」の概念、すなわち「回避・最小化・復元・オフセット」の優先順位で対策を行うこと、は気候変動の文脈でも同様に適用でき、論文の前提である内部脱炭素化をオフセットよりも優先すべきであるという主張に相当します。
    つまり、ネットゼロの達成は事業モデルの転換による排出の回避・削減を最優先にすべきことは言うまでもありません。オフセット以前に十分な回避・削減が行われているのかどうか、企業の排出量削減の実績の正当な評価がなされる枠組みが必要だと言えるでしょう。
  2. 質の悪いクレジットと規制の必要性
    論文は、低品質で安価なカーボンクレジットの存在が、企業によるモラルハザードを引き起こす潜在的な脅威であることを示唆しています。この問題を解決するためには、単にオフセットの実行形態(自主的かコンプライアンスか)を議論するだけでなく、オフセットに利用可能なクレジットそのものに対し、質的な規制を加えることが不可欠です。具体的には、クレジットの排出削減効果に科学的な裏付けと厳格な第三者検証を義務付けるアプローチが求められます。
  3. 「取るに足らない」支出と需要の弱さ
    論文で、オフセットへの支出が設備投資(CAPEX)比で極めて低い水準にとどまり、企業によるオフセットへの需要が弱いことが指摘されています。
    ETS(排出量取引制度)の下での義務的な排出枠コストが、自主的なカーボンクレジット費用を圧倒的に上回る事実は、義務的ではないオフセット行動に、企業の構造改革を促すほどの十分な経済的インセンティブがないことを示唆しています。この需要の弱さを克服し、市場を機能させるためには、企業によるクレジットを含めた排出削減努力の開示の質を向上させ、その信頼性と企業間の比較可能性を担保する制度の充実が求められます。
  4. 義務的オフセットへの移行は強力だが、科学的裏付けが不可欠
    より根本的な需要を喚起し、オフセットを気候変動対策の有効な手段とするためには、オフセットを義務化することが最も強力な手段であることは明らかです。しかし、義務的なオフセット制度がその目的を果たすためには、クレジットとオフセット主張の科学的な裏付けと検証が確実に担保されることが絶対的な条件となります。質の担保なく義務化すれば、それは実質的な排出削減を伴わない「偽りの成果」 を生み出すモラルハザードの温床となりかねません。

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